田副暢宣

ダンスミュージックと現代音楽の歴史(年表)~1900年以降

1894年 アメリカのオハイオ州にて、雑誌「ビルボード」創刊、当初は地元のエンタメ情報を掲載したものだった。
1901年 ジャズ最初の偉大なソロ奏者ルイ・アームストロングが、ルイジアナ州ニューオリンズに生まれる。19世紀末以降この町は、アメリカに残るヨーロッパ文化と、アフリカからの奴隷がもたらしたアフリカ文化、それらに彼らの音楽センスが加わりできた新しい音楽の揺りかごとなる。
1909年 ダンソネーテの名歌手バルバリート・ディエスがキューバに生まれる。
1913年 アメリカの雑誌「ビルボード」にて、初めての音楽チャートである“Sheet Music Best Sellers Chart”を発表。
1917年 1月、白人ミュージシャンの楽団、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドがジャズの最初のレコード<リヴァリー・ステイブル・ブルース〉を録音。11月には、ニューオリンズの歓楽街ストーリーヴィルが閉鎖され、ミュージシャンが北部に移動する。
1925年 ルイ・アームストロングがホット・ファイヴと組み、シカゴで名作となる録音をする。偉大なブルース歌手、ベッシー・スミスがアメリカ黒人音楽の女王と認められる。ジョセフィン・ベーカーの黒人レヴューがパリに上陸。
1927年 ピアニストで作曲家のデューク・エリントン率いるオーケストラが、ニューヨークのハーレムにある有名なキャバレー、コットン・クラブと契約。ハーレムは、"ハーレム・ルネッサンス"ということばに示されているように、当時の芸術活動の中心地となった。
1930年 キューバ出身のバンド・リーダー、ドン・アスピアス率いる楽団がNYのパレス劇場でおこなったショーが大好評。
1935年 ピアニストのカウント・ベイシーが、自ら率いるオーケストラとともにカンザス・シティのレノ・クラブでデビュー、最高の人気楽団になる。ニューヨーク52丁目にキャバレーやクラブの開店が相次ぎ、ジャズの中心地となる。
1938年 1月16日、クラリネット奏者ベニー・グッドマンの指揮のもと、クラシック音楽の殿堂である、ニューヨークのカーネギー・ホールにジャズが登場。多くの聴衆がこの新しい音楽を正真正銘の芸術と認める。
1940年 アメリカの雑誌「ビルボード」にて、初めて全米を集計対象にしたチャート“Best Selling Retail Records”が発表、チャートの規模は10位までだった。
1941年 ニューヨーク、ミントン・クラブでの熱気に満ちたジャム・セッションに、ジャズの新たな主役たちが参加。その中にはサックスのチャーリー・パーカー、トランペットのディジー・ガレスピーなど、ビ・パップを代表するミュージシャンがいた。
1943年 1月1日、ニューヨークのカーネギー・ホールにおいて、デューク・エリントンがくブラック・ブラウン・アンド・ベージュ〉を演奏。アメリカ黒人社会にエールを送り、音楽を通じて黒人解放をめざす偉大な試みを実現した。
1945年 ビ・パップがジャズの新しい形式と認められる。チャーリー・パーカーが初期の傑作を録音。北部の工業都市に住む黒人の間でリズム・アンド・ブルースが人気を得る。Vディスクにより、ヨーロッパにジャズが広がり始める。
1948年 レコード業界では、直径30cmで33+1/3回転の長時間レコード(LP)を導入。このレコードには片面20分の録音が可能だった。これにより、ソロ奏者はそれまでのように演奏時間を短く切らないですむことになる。
キューバ音楽の担い手、アダルベルト・アルバレスが、キューバの首都ラ・アバナに生まれる。
1949年 パリのサル・プレイエルでのジャズ・フェスティバルが成功を収める。レニー・トリスターノによるニューヨークでの実験的演奏、トランペッターのマイルス・デイヴィスと彼の九重奏団による試みなどにより、クール・ジャズが誕生する。
1950年 アメリカのサム・クックが19歳でゴスペル・クァルテットの「ソウル・スターラーズ」に加入。
1952年 黒人的な要素が薄まった、伸びやかで軽快なリズムのジャズがカリフォルニアに誕生。それはウエスト・コースト・ジャズと呼ばれる。サックス奏者のジェリー・マリガン、トランペッターのチェット・ベイカーらが参加したカルテットがたちまち人気を得る。
1955年 ハウスの生みの親と言われているDJ/プロデューサー「ゴッド・ファーザー・オブ・ハウス」ことFRANKIE KNUCKLESが、アメリカのサウス・ブロンクスに生まれた。
ぺレス・プラードの「セレソ・ローサ」がヒットしたことがきっかけで、日本でもマンボが流行。
アメリカの雑誌「ビルボード」にて、初めて100位までの音楽チャート“TOP100”が登場。
アメリカの雑誌「ビルボード」のシングル年間チャート1位はぺレス・プラード楽団の「セレソ・ローサ」、2位がビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」、それまでの時代の象徴と、これからの時代を予言する曲が並び、アメリカの音楽シーンにとって大きな変貌を遂げた年とされている。
1956年 アート・ブレイキーと彼のジャズ・メッセンジャーズを中心に展開されたハード・パップにおいて、ジャズはアメリカ黒人の伝統やブルースとの絆を再び結び直した。チャールズ・ミンガスは『直立猿人』を録音し、ジャズが黒人の怒りを表現した。
小坂一也、エルヴィス・プレスリーの「ハート・ブレーク・ホテル」の日本語カヴァー盤を発売。
アメリカのサム・クック、ディル・クックという名前でポップ・レコードを発売。
エルヴィス・プレスリーがデビュー、アメリカの雑誌「ビルボード」の年間シングルチャート1位、2位を独占の快挙。
1957年 ワゴン・マスターズの堀威夫と寺本圭一が新バンドスイング・ウエストを結成。米国でロカビリーが盛んになったため、日本もその影響を大いに受けた。
ハリー・べラフォンテのカリプソの名曲を、弱冠18歳の“カリプソ娘”浜村がカヴァーして10万枚突破の大ヒット。日本でもカリプソブームとなる。
NYのダンスシーンを作り上げた代表的なDJの一人である、DANNY KRIVITがNYで生まれる。
1958年 第1回「日劇ウエスタン・カーニバル」開催。早朝から数千人ものファンが日劇を取り巻くという盛況となり、大ブームを巻き起こす。総入場者数4万500人。
ミッキー・カーチス、銀座のACBでのステージの模様を収録した本邦初のロックのライブLP「土曜はミッキーと」リリース。
アメリカの音楽チャートではサウンドトラックが強く、この年のチャート1位「マイ・フェア・レディ」であった。
1959年 4人組のサーフロックバンド「ベンチャーズ」がデビュー。日本にエレキギターブームを巻き起こすきっかけとなった。
アメリカ、デトロイト市に音楽レーベル「モータウン」が設立された。ソウル、ブラックミュージックを中心とした音楽史上でも重要なレーベルの一つ。
キングストン・トリオの登場で、アメリカでフォーク・ブームが起きた。
1960年 ボルティモアのハンク・バラードが"Twist"を発表。全米でツイストが流行する。
サックス奏者オーネット・コールマンが『ブリー・ジャズ』を録音し、自由で形式にとらわれないジャズの新境地を切り開いた。同じくサックスのジョン・コルトレーンは自らのカルテットを結成、ジャズ史に残る名作を発表する。
NYのヒスパニック・コミュニティで爆発的に「ブーガルー」が流行。
パーシー・フェイス管弦楽団の「夏の日の恋」が、アメリカの雑誌「ビルボード」の年間シングルチャート1位を獲得した。
1961年 “ドドンパ”は、アイ・ジョージや坂本スミ子の事務所、大阪ターゲット・プロの古川益雄社長が作った国産のリズムで、この年一世を風靡した。
飯田久彦、ジーン・ピットニーの向こうではまるで流行らなかった「ルイジアナ・ママ」のカヴァー盤を発売、大ヒットとなる。
映画「サウンド・オブ・ミュージック」のオリジナル・キャスト盤がヒットし、アメリカの雑誌「ビルボード」の年間アルバムチャート1位を取得。
1962年 ビートルズのリンゴ・スター、キャヴァン・クラブでビートルズのドラマーとして初デビュー。
中尾ミエ、コニー・フランシスの「可愛いベビー」でデビューし、大ヒットとなる。ツイスト旋風の申し子と呼ばれた。
サウンドトラック「ウエスト・サイド物語」がアメリカのアルバム売上チャートの1位となる。翌年も1位の快挙。
映画「ウエスト・サイド物語」のサウンド・トラックが、アメリカの雑誌「ビルボード」の年間アルバムチャート1位を取得、60年代はサウンド・トラックやインストゥルメンタルが強かった。
ベリー・ゴーディがソウル・ミュージックのレーベル「モータウン・レコード」を本格的に開始。
1963年 「プリーズ・プリーズ・ミー」がビートルズの曲として初めて、イギリスのヒット・チャートの1位になる。
ビートルズのアルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」が発売される。
坂本九の「上を向いて歩こう」が「スキヤキ」という英題で、3週連続で全米第一位という快挙。
NYのブラック・ダンス・ミュージック・シーンのリーダー的存在のDJでありプロデューサー、TIMMY REGISFORDがトリニダードで生まれる。
女優のバーブラ・ストライサンドが歌手としてデビュー。
1964年 ビートルズが初のアメリカ公演を行う。
ビートルズのシングル「キャント・バイ・ミー・ラブ/ユー・キャン・ドゥ・ザット」が発売される。
ジョン・レノンの著書『イン・ヒズ・オウン・ライト』が出版される。
ロンドンのピカデリー・サーカスにあるパビリオン劇場で、ビートルズ初の主演映画「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!」のプレミアム・ショウが開かれる。劇場のまわりには1万2000人のファンが集まる大盛況。マーガレット王女も、スノードン卿とともに出席。
ビートルズのシングル「ビートルズがやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!/今日の誓い」が発売される。
ミュージカル、映画「ドリームガールズ」のモデルとなった、R&Bグループのシュープリームスが活躍。
啓蒙活動組織「ファイブ・パーセント・ネーション」がニューヨークで創設、ラッパーのラキムもメンバーとなった。
1965年 NYにディスコ<Arthur>がオープン。スウィンギン・ロンドン・カルチャーが隆盛
シカゴでミュージシャンの団体AACMが結成される。メンバーにはエアー、アート・アンサンブル・オブ・シカゴといったグループや、サックス奏者のアンソニー・ブラクストン、ピアニストのムハル・リチャード・エイブラムスといったソロ奏者がいる。
イスラエル出身のデュオグループ「ヘドバとダビデ」がデビュー。大ヒット曲「ナオミの夢」は、もともとイスラエルのコーヒーのCMソングであった。
1966年 NYにて、<Electric Circus>がオープン。サイケデリック、LSDブームが巻き起こる
ビートルズが東京公演を行う
フジテレビで「ビート・ポップス」放送開始。司会は大橋巨泉らが務め、有名グループサウンズや来日外タレが出演し、充実した洋楽情報番組であった。
スパイダース、フォーク調の「夕陽が泣いている」を発売、大ヒット。
アメリカのアイドルグループ「モンキーズ」が、デビューアルバム「恋の終列車」と次の「アイム・ア・ビリーバー」で連続31週売上チャートの1位を独占。
ウインザー・フェスティバル(第6回ナショナル・ジャズ&ブルーズ・フェスティバル)に登場した「クリーム」は、フリー・フォームで曲を組み立てるインプロビゼーションで観客を圧倒した。
1967年 ビートルズのジョン・レノンとポール・マッカートニーが「ミッシェル」でグラミー賞作曲賞を、ポール・マッカートニーが「エリーナ・リグビー」でグラミー賞コンテンポラリー歌唱賞を受賞する。
ファッションデザイナーの松田弘光が、文化服装学院を卒業後に、ファッションブランド「ニコル」を設立。
タイガース、「僕のマリー」でレコード・デビュー。空前のGSブーム到来。
サンフランシスコで「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれる平和的、文化的な運動が巻き起こる。日本ではフラワー・ムーブメントとも呼ばれている。
クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウンがシングル「デビルズ・グリップ」でデビュー。
1968年 ジャクソン5がモータウン・レコーズと契約。精力的にツアーとレコーディングを行う。
ビートルズのシングル「ヘイ・ジュード/レボリューション」が発売される。
DAVID MANCUSOがNYの自宅でプライベート・パーティー“THE LOFT”をはじめた。“THE LOFT”は音楽重視のアンダーグラウンド・クラブの草分け的存在の一つ。
イギリスにてロックバンド「ディープ・パープル」が結成された。メンバーチェンジを繰り返しつつ、ハードロックの雄として君臨してきた。「スモーク・オン・ザ・ウォーター」はあまりにも有名。
1960年代後半より、サイケデリック・ロックが流行し始める。ジミ・ヘンドリックス・エクスぺリエンスの「アー・ユー・エクスペリエンスト?」がアメリカの雑誌「ビルボード」の年間アルバムチャート1位を取得。
1969年 ダンス・ミュージックの本場と言われるNYで、現在につながるディスコ、クラブが生まれる。
NYに教会を改装したディスコ<Church><Sanctuary>が開店。DJを務めていたのはフランシス・グラッソ。
トランペッターのマイルス・デイヴィスがジャズにエレクトリック楽器を導入し、同時にロックのリズムもとり入れた作品『ビッチェズ・ブリュー』を録音。ジャズとロックを結びつけるマイルスの試みに、仲間の何人かも追随した。
ビートルズがEMIスタジオ近くの横断歩道で『アビイ・ロード』ジャケット撮影。
アメリカのニューヨーク州サリバン郡にて、ウッドストック・フェスティバルが開催、ジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックスなどが出演。
NYのアンダーグラウンド・クラブのはしりとして、デビッド・マンキューゾのオーガナイズによる会員制のワンオフ・パーティをはじめた。
1970年 ギャンブル&ハフがCBSコロムビア傘下にフィラデルフィア・インターナショナル・レコードを設立
デヴィッド・マンキューソがプライヴェート・パーティー<Loft>をスタートさせる
ビートルズのジョージ・ハリスンが、ニューヨークでボブ・ディランと「イフ・ノット・フォー・ユー」をレコーディングする。
カナダ出身の4人組バンド「マッシュ・マッカーン」がデビュー。デビューアルバムの中からカットされた「霧の中の2人」が大ヒットした。
サイモン&ガーファンクル「明日に架ける橋」で、ビルボード年間チャートのアルバム、シングル部門の初の同時1位となる。
ブラック・サバスがデビュー・アルバム「黒い安息日」発表、後にヘビー・メタルの源流と呼ばれるようになった。
ブラック・ウィドウのデビュー作「悪魔と魔女と生贄」から、「集まれ魔女!」がシングル化されヒット。
1971年 アルバム「レット・イット・ビー」がグラミー賞のベスト・オリジナル・スコア賞に輝き、ポール・マッカートニー夫妻、ロサンゼルスで開かれた授賞式で、ジョン・ウェインからトロフィーを手渡される。
「第3回全日本フォークジャンボリー」が中津川で開催。フォーク/ロック史上最も大きな歴史的イベントの一つ。
東京・渋谷に“BYG”がオープン。現在の意味のようなロックのライブ・ハウスが日本で初めて誕生した。
シンガー・ソングライター・ブームが起き、キャロル・キングの「つづれおり」が年間アルバムチャート2位を記録する大ヒットとなった。
サンタナ「サンタナ3」、ラテン・ロックで名を馳せた初期サンタナの頂点ともいうべき傑作、ロックとしての演奏力の高さが際立つ。
グランド・ファンク・レイルロードの初来日公演が、嵐の中、甲子園球場で行われた。
ブラック・サバスがアルバム「パラノイド」発表、前作「黒い安息日」より、タブーへの挑戦がさらに顕著となった。
1972年 <Galaxy21><Better Days>がオープン。ウォルター・ギボンズ、ティー・スコット、フランキー・ナックルズなどのDJが登場。
フィラデルフィアの男性4人組グループ「ソフトーンズ」がデビュー。「愛のあかし」の大ヒットで一躍注目を集めた。
キャロルが「ルイジアナ」で衝撃のデビュー。
1973年 エディ・ケンドリックス"Girl You Need A Change Of Mind"がリリース。後に<初のディスコ・ミュージック・レコード>と評された。
ニール・ボガートがLAにカサブランカ・レコードを設立。
岩手県出身の3人組のフォークバンド「NSP」がデビュー。ヒット曲に「夕暮れ時はさみしそう」「赤い糸の伝説」などがある。
ピンク・フロイドのアルバム「狂気」が、アメリカの雑誌「ビルボード」のアルバムチャート1位を獲得。以後、1983年まで断続的に6年間もチャートに入る大ヒットとなった。
ボストン出身の「エアロスミス」がデビュー、ライブ・パフォーマンスの強靭さが売りものとなり、次々に観客動員数を塗り替えていった。
1974年 ラヴ・アンリミテッド・オーケストラ、MFSB、ヒューズ・コーポレーション、ジョージ・マクレーなどのディスコ・ヒット・シングルがポップ・チャートで1位を記録。
ジョー、ケン、スタンリーのカイル兄弟がサルソウル・レコードを設立。
TV番組「ソウル・トレイン」が放送開始。
ラリー・レヴァンがDJをスタート。
ジョルジオ・モロダーのプロデュースにより「ドナ・サマー」がデビュー。ディスコの女王として活躍。代表曲に「ホット・スタッフ」「アイ・フィール・ラヴ」など。
ジョン・デンバーのアルバム「故郷の詩」が、アメリカの雑誌「ビルボード」の年間アルバムチャート、1974年と1975年の2年連続の2位を獲得。
個性的なスタイルで注目を集めた「キッス」がデビュー、歌舞伎にヒントを得たメーク、派手なライブなどで人気を博した。
1975年 ハロルド・メルヴィン&ブルー・ノーツ"Bad Luck"がビルボードのディスコ・チャートで11週連続1位に
シルヴァー・コンヴェンション"Fly,Robin,Fly"、ドナ・サマー"Love To Love You Baby"などがヒット。ユー口・ディスコが台頭
サディスティック・ミカ・バンド、ロキシーミュージックとともに全英ツアーを始める。
NYにて“SALSOUL”というレーベルが誕生。“SALSOUL”はサルサとソウルの合成語。
1976年 ピー・ジーズ"You Should Be Dancin'"、テルマ・ヒューストン"Don't Leave Me This Way"などが大ヒット
ダブル・エクスポージャー"Ten Percent"が、商用では初の12インチ・リミックス盤として流通
メル・シェレン、エドによる独立系レーベル、ウエスト・エンドが創業
セックス・ピストルズがデビュー。UKでパンク旋風が吹き荒れる
ラリー・レヴァンがパラダイス・ガラージの共同オーナーに。同クラブのレジデントDJとして名を馳せる一方、プロデューサーやリミキサーとしても活躍
フリー・ジャズを受け継ぐ若いミュージシャンたちがロフト・ジャズに活路を見出す。ニューヨークの工場地帯に残された空間を住居やスタジオに改造し、自分たちの自由な空間で自由に演奏するジャズをロフト・ジャズと呼んだ。
NYのオールスター・サルサグループ「ファニア・オールスターズ」が初来日。
1977年 フランキー・ナックルズがNYからシカゴへ拠点を移し、<Warehouse>でDJを開始
NYにてセレブリティ向けディスコ<Studio54>がオープン
NYのキング・ストリートに巨大ディスコ<Paradise Garage>がオープン
映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が全米で公開。世界的なディスコ・ブームの契機となった
シックの『Dance,Dance,Dance/Everybody Dance/You Can Get By』が大ヒット
スウェーデンのグループ、アバの「ダンシング・クイーン」がヒット
フリートウッド・マックのアルバム「噂」がアメリカの雑誌「ビルボード」の年間アルバムチャート1位を獲得、1978年にも年間3位と大ヒットした。
クラフトワーク「ショールーム・ダミー」がアメリカでディスコ・ヒット。これをきっかけに電子楽器を駆使したダンス・ミュージック(エレクトロ・ディスコ)がチャートを席巻。
エアロスミスが初来日公演。
1978年 ローリング・ストーンズ"Miss You"リリース。翌年にかけてロッド・スチュワート、キッスなどがディスコ・シングルを発表。
アメリカで開催の“クール・ジャズ・フェスティバル”サンディエゴ会場の出演者は、シック、シスター・スレッジ、GQ、リック・ジェイムス、オージェイズほか、そうそうたる面子。初日のトリはテディ―・ペンタグラス、二日目のトリはマーヴィン・ゲイという豪華さ。
ディスコ映画「サンク・ゴッド・イッツ・フライデー」が公開、第51回アカデミー賞歌曲賞を受賞。
ビー・ジーズが音楽を手掛けた映画「サタデー・ナイト・フィーバー」のサウンドトラックが24週連続でビルボードのアルバムチャート1位を記録。
元ディープ・パープルのリッチー・ブラックモアが結成したレインボーが、日本で人気爆発、日本市場でのハード・ロック人気の強さが世界中で話題となった。
1979年 シカゴのロック専門ラジオ局DJを中心に、ディスコ・ブームに異議を唱える<ディスコ・サックス><バックラッシュ>運動が起きる。
シュガー・ヒル・ギャング"Rapper's Delight"がリリース。
イギリスの代表的なエレクトロニックポップバンド「ヒューマン・リーグ」がデビュー。「ファッショネーション」などのヒット曲を多数発表した。
ヒップホップグループの「シュガーヒル・ギャング」の登場を機に、ラップがポップ・シーンでも流行り始めた。
ファンク&ディスコ・バンドのファットバック・バンドがリリースした「キング・ティム・3」が、初めて従来的な韻律があるラップ要素のある曲としてヒット
タニヤ“スウィート・ティー”とポーレット・ウインリー姉妹がシングル「ライミン・アンド・ラッピン」リリース、この曲は先見の明と影響力のどちらも持ち合わせている名曲であった
1980年 NYにて旧<Fillmore East>を改装した巨大ゲイ・ディスコ<Saint>がオープン。
ビートルズのジョン・レノン、ニューヨークの自宅前でファンに射殺される。報道後、自宅周辺には大勢のファンが集まった。当時のカーター大統領が、ジョン・レノンの死を悼んで特別声明を出した。
プラスチックス、「ウェルカム・プラスチックス」で国内デビュー。
ジューシィ・フルーツ「ジェニーはご機嫌ななめ」でデビュー。
カーティス・ブロウの「ザ・ブロンクス」がヒット、ラッパーとして成功を収めた。
イギリスで第1回「モンスターズ・オブ・ロック」開催、出演はレインボー、ジューダス・プリースト、スコーピオンズ等。
1981年 バトリック・コウリー、ジノ・ソッチョ、ライムなどのシングルがビルボード・ディスコ・チャートでトップに。米西海岸を拠点にハイエナジー・サウンドが台頭。
UKを基点にニュー・ロマンティクス、エレポップなどが流行。
MTVが放送開始。
シカゴのラジオにおいて、HOT MIX5というDJグループが、ダンス・ミュージックをプレイし、流行を広げていった。HOT MIX5のメンバーは、JESSIE SAUNDERS、FARLEY KEITH、MICKEY OLIVER、RALPHI ROSARIO、KENNY JASON。
アフリカ・バンバータ&ジャジー・ファイブの「ジャジー・センセーション」がリリースされた。
ヒップ・ホップグループのファンキー4+1が、テレビで「ジョイント」を披露、これがヒップホップグループのテレビ全国放送での初のパフォーマンスとなった。
クール・モー・ディ―対ビジー・ビー・スタースキーが、初のラップ・バトルを、クリスマス・ラッパーズ・コンベンションで行った
1982年 英マンチェスターにクラブ<Hachienda>がオープン
マイケル・ジャクソンがアルバム『スリラー』を発表。アルバム『E.T.ストーリーブック』でナレーションを務める。ブックレットにはE.T.とのツーショット写真も。
忌野清志郎と坂本龍一、企画シングル「い・け・な・いルージュ・マジック」を発売、ヒットとなる。
BOW WOWが日本バンドとして初めて英国のレディング・フェスティバルに出演。
グランドマスター・フラッシュ・アンド・ザ・フューリアス・ファイブの「ザ・メッセージ」がラップ・ソングとしては初めて、米国議会図書館により、国家保存重要録音登録台帳に入れられた。
メリー・メル「ザ・メッセージ」、曲の中にしっかりした思想や考えが入っている名曲。
ビジー・ビーの「メイキング・キャッシュ・マネー」、弁舌巧みで、ファンキーながら、純粋に資本主義をテーマにした曲はこれまでなかった、後代に影響を与える一例
1983年 マイケル・ジャクソン『スリラー(Thriller)』が記録的ヒット
アルミニウム製で円盤の形状をもち、レーザー光線で音を読み取る方式のコンパクト・ディスクが出現し、それまでのビニール・レコードにとって代わる。こうした技術革新により、ジャズ初期からの歴史を録音して記録することが可能となった。
札幌のDJ、TOKUは(おそらく)日本人として初めてNYのダンスクラブ「PARADISE GARAGE」を体験、そして札幌のDJ、HEYTA、NORI、そして東京のDJ、高橋透をPARADISE GARAGEに案内した。このことが日本のハウスシーンの始まりのきっかけの一つとなっている。
NYでは多くの人によりハウス的サウンドが作られるようになり、初期ではJASSIE SAUNDERSが手掛けたZ FACTOR“FANTASY”が有名。
ランDMCの最初のシングル「イッツ・ライク・ザット/サッカーMC'S」が発売
クリス・サリバンがアメリカ・カリフォルニア州のナイトクラブ「ウイスキー・ア・ゴーゴー」の跡地に、「ワグ・クラブ」をオープンさせた。
メタリカを追われたデイブ・ムステインがメガデスを結成、ヘビー・メタルの組分化が始まり、スラッシュ・メタルと呼ばれるジャンルが確立された。
1984年 デッド・オア・アライヴ"You Spin Me Round(Like a Record)"、エヴェリン・トーマス"High Energy"などのハイエナジー・サウンドが大ヒット
マーヴィン・ゲイが実父に射殺される
最初のハウス・シングルと言われる、ジェシー・サンダース"On&On"が発表
ポール・マッカートニー&マイケル・ジャクソン「Say Say Say」発売。
キューバにて、アダルベルト・アルバレスが「アダルベルト・アルバレスと彼のソン」を結成、人気テレビ番組にてデビュー。
プリンス&ザ・レヴォリューションのアルバム「パープル・レイン」が、アメリカの雑誌「ビルボード」のシングルチャート24週1位。
フーディーニの「フレンズ」がラジオから活況となる、ラッパーやラップ・グループがポップ・ソングを作る最初の機会となった。
ニューヨークのテレビ番組「ビデオ・ミュージック・ボックス」がラップに注目、テレビにラップ・ビデオが放映し始めた。
ポール・オークンフォルド(イギリス)が、クラブ「ザ・ファンハウス」をオープン。
イブリン・トーマス「ハイエナジー」がヒット、“Hi-NRG”(ハイエナイジー)というディスコ・シーンでの盛り上がりが一般的に認知されることとなった。
1985年 ビートルズのリンゴ・スター、アサヒビールの「シュウェップス」のCMに出演する。
COLONEL ABRAMS“Trapped”など、打ち込みのガラージ・サウンドとして、現在と変わらないスタイルを確立。
シカゴ発の、これまでのサウンドとは一線を画すダンスミュージックが登場した、その名も“ハウスミュージック”。
ケヴィン・サンダーソンが、レーベル名「KMS」、プロジェクト名「リーズとインナーシティ」として活動を開始。
マドンナ「ライク・ア・ヴァージン」発売。
ブルーハーツが新宿ロフトでバンド・デビュー。
チャリティ・シングル、USA for AFRICAの「ウイ・アー・ザ・ワールド」がヒット。
ダグEフレッシュ&スリック・リックの「ラ・ディ・ダ・ディ」が発売、原型的なストーリーテリング物のラップ・ソング。
ジュアン・アトキンスが、レーベル名をメトロプレックスとして、高校卒業後に本格的に音楽活動を始めた。
デリック・メイが、トランスマットというレーベルで、プロジェクト「リジィーム・イズ・リジィームとメイディ」で活動を始めた。
1986年 グレイス・ジョーンズ"Slave To The Rhythm"、ペット・ショップ・ボーイズ"West End Girls"、バナナラマ"Venus"などがディスコ・チャートのトップに。
ハウス系サウンドを打ち出すレーベルが生まれ、次々にリリース開始。主なものに、EASY STREETからPAUL SIMON“You Don'tKnow”、CULTURAL VIBE “Ma Foom Bey”、SUPERTRONICSからTOUCH“Without You”などがある。
ロンドンでNOEL WATSONらがHEAVENで本格的なハウス・パーティー“DELIRIUM”を行い、注目を集める。
チャリティ・シングル、ディオンヌ&フレンズの「愛のハーモニー」がヒット。
アイスTの「6 イン・ザ・モーニン」が発売、この曲によってギャングスタ・ラップというジャンルを作り出したといわれた。
エリックB・アンド・ラキム「エリックB・イズ・プレジデント」がニューヨークでヒット、どこもかしこもこの曲で持ち切りだった。
ノーマン・ジェイ「シェイク&フィンガーポップ」、ジャジーB「ソウルⅡソウル」といった黒人たちのファンク・ウエアハウス・シーンがピークをむかえる。
映画「アブソリュート・ビギナーズ」公開、デビット・ボウイやシャーデーら多くのアーテイストの才能が結集した作品。ロンドンのクラブでの“ジャズで踊る”シーンがダイレクトに紹介された。
トーマス・フェルマンがトランス・グローバルから、フェルマンズ「レディ・メイド」という映画音楽のみをサンプリングしたダンス・ミュージックのシングルをリリース。
ボン・ジョヴィが次々とヒットを連発し、全米アルバムセールスが1000万枚を記録、空前のセールスとなった。
1987年 <Paradise Garage>が閉店
UKにてM/A/R/R/S"Pump Up The Volume"が大ヒット。コールドカット、ボム・ザ・ベースほかUK産ダンス・ミュージックが台頭。
UKではクラブ<シューム>などを拠点にアシッド・ハウスが爆発的な人気を獲得。
マイケル・ジャクソンがアルバム『BAD』を発表。
NYアンダーグラウンド・ダンス・ミュージックの黄金期を作り上げた一人である、FRANCOIS KENVOLKIANが、AXIS STUDIOを設立。
日本初のクラブ“踊庫”が札幌にオープン。
日本から人気に火がついた、ボン・ジョヴィのアルバム「ワイルド・イン・ザ・ストリーツ」がアメリカの雑誌「ビルボード」の年間アルバムチャート1位を獲得
エリックB&ラキムによる「ペイド・イン・フル」によって、ラップが完成したといわしめた。
パブリック・エネミーによる1作目のアルバム「YO! BUM ラッシュ・ザ・ショウ」が発売。
イギリスのロックバンド、ストーン・ローゼスが音楽番組「スナップ」に出演したことをきっかけにブレイク。
ロンドンのクラブ「シューム」が、クラブが発行する雑誌としては初めての「フューチャー」を発刊した。
1988年 カイリー・ミノーグのシングル"The Loco-Motion"がダンス・チャート上位に。
NYにて、PARADISE GARAGEのゲイ・サイドとSAINTを引き継いだ形で、ジュニア・ヴァスケスがレジデントDJを務める、NY最大のゲイ系パーティー<Sound Factory>がオープン。
ロンドンでは、エクスタシーの流通と共にPAUL OAKENFOLDの“SPECTRUM”、NICKY HOLLOWAYの“TRIP”などでアシッド・ハウスが大ブレイクし、集客は一挙に10倍も膨れ上がった。
ホイットニー・ヒューストンが、1985年から1988年までに、アメリカの雑誌「ビルボード」の7曲連続ナンバー1シングルを記録。
カリフォルニア州出身のギャングスタ・ラップ・グループN.W.Aの「ストレイト・アウタ・コンプトン」が発売。アメリカでギャングスタ・ラップの人気を高めた。
アイスTが映画「カラーズ 天使の消えた街」の主題歌を作成し全米の注目を集め、その後の活動の幅を広げる機会となった。
イギリスのハウスユニット「ザ・KLF」がザ・タイムローズ名義でリリースしたシングル「ドクトリン・ザ・ターディス」が見事ナショナル・チャート1位となる。
ディペッシュ・モードを擦り切れるまで聴いたというデリック・メイが、イェロー「ザ・レイス」のリミックスを手がけた。
ティム・シムノン率いるボム・ザ・ベースのリズム・キングからのデビュー・シングル「ビート・ディス」が大ヒット、アルバムジャケットには流血したスマイル・マークが描かれていた。
1989年 インナー・シティ"Good Life"、テン・シティ"That's the Way Love Is"発表。ヴォーカル・ハウスがダンス・チャート上位に登場し始める
JOEY NEGROがREPUBLIC RECORDSをスタートさせ、ガラージ・ハウスの紹介に勤めた
東京に7階建ての巨大クラブ「ゴールド」がグランドオープンした。
ブルーハーツのシングル「TRAIN-TRAIN」が大ヒット。
パブリック・エネミーの「ファイト・ザ・パワー」発売、ロックの殿堂で、ロックンロールを形作った500曲の1つに挙げられた。
イギリスにて、トニー・コスルトン‐ヘイタ―率いる「サンライズ」が、最大のレイブ・イベント「ミッドサマー・ナイツ・ドリーム」で1万2000人の集客を記録、レイブ・カルチャーをメジャーに引き上げるきっかけとなった。
DJインターナショナルを中心とするヒップ・ハウス・ブームが一時的に流行した。
ソウル2ソウルが、「キープ・オン・ムーヴィン」で一躍ポップスターとなり、80年代後半のイギリス・ダンス・シーンの最も突出したグループとなった。
1990年 C&Cミュージック・ファクトリー"Gonna Make You Sweat(Everybody Dance Now)"がビルボード・ディスコ・チャート5週連続1位に。
シカゴで、STEVE SILK HURLEYがID PRODUCTIONを結成し、プロダクション、リミックスに活躍し、オーソドックスな形に進化したシカゴ・ハウスをアピールした。
HISA ISHIOKA氏と村田大造氏のプロデュースで、NY系ガラージDJをゲストに迎えるパーティー、“WORLD CONNECTION”がCAVE、“NEXT”でスタートし、本格的なNYガラージ・スタイルが紹介されるようになった。
東京にディスコ「ジュリアナ東京」がオープン。場所はクラブ「ゴールド」の裏手だったため、ゴールドに来ていたボディコン女性達が一気にジュリアナ東京へなだれ込んだ。
ア・トライブ・コールド・クエストの「ボニータ・アップルバム」がラップでのラブ・ソングとしてヒット。
ゲフィン・レコード社が発売予定のゲトー・ボーイズのアルバム「ザ・ゲトー・ボーイズ」の配給を直前に中止
1991年 ロンドンにて<Ministry Of Sound>がオープン
日本の六本木にクラブ「YELLOW」がオープン。日本を代表するクラブとなったが、2008年に閉店。
DJ HARVEYがロンドンのGARDENING CLUBで“MOIST”を始める。
アメリカの雑誌「ビルボード」のチャートの集計方法が大きく変更、コンピュータを導入し、リアルタイムの集計になった。 ゲトー・ボーイズ「マインド・プレイング・トリックス・オン・ミー」で、精神的な病を引き起こす構造を間接的に表現した。
1992年 NYでラリー・レヴァンが38歳の若さで逝去。マジカルなプレイスタイルは、今もなお伝説として語り継がれている。
シカゴでロン・ハーディが逝去。
DJのWALTER GIBBONSがWORLD CONNECTIONで来日。
NYの“Sound Factory Bar”がオープン。
アメリカの雑誌「ビルボード」のアルバム年間チャート1位は、ガース・ブルックスの「アメリカの心」であった。
ドクター・ドレー ft スヌープ・ドッグの「ナッシン・バット・ア・G・サング」のヒットは、カリフォルニアをラップの最重要拠点にした。
アーネストRディッカーソン監督による映画「ジュース」にて、トゥパックがビショップ役を好演。
クリス・クロスによるシングル「ジャンプ」が200万枚を超えるヒット、服を後ろ前逆さに着て歌う彼らのスタイルも注目を集めた。
ファレル・ウィリアムスが、レクスン・エフェクトの「ランプ・シェイカー」を書き、プロデュースを手伝った
ケリー・チャンドラーが自身のマッド・ハウス・レコードを設立して傑作コンピレーション・アルバム「ア・ベースメント・ア・レッドライト・アンド・フィーリン」を発表した。
1993年 ペット・ショップ・ボーイズがヴィレッジ・ピープル"Go West"のカヴァー・ヒットを放つ。
ロンドンのクラブMINISTRY OF SOUNDではJUSTIN BERKMANNに代わって、TONY HUMPHRIESがレジデントとなる。
ラテン音楽の王様、ティト・プエンテがRMMレコード所属のサルサ・アーティスト総出演のアルバム「コンビナシオン・ペルフェクタ」に参加して、ティンバレスとヴィヴラフォンのソロを披露した。
CHOICEの後を受けてソウルフルなブラック系ハウスの拠点となっていた“SHELTER”がクローズした。
ウータン・クランのアルバム「エンター・ザ・ウータン」の中の「クリーム」がヒットし、新たなラップの先駆者となった。
1994年 ビートルズのアルバム「ザ・ビートルズ・ライブ!!アット・ザ・BBC」が発売される。
DJ PIERREのWILD PITCH STYLEやX-PRESS 2の延長線上に、JUNIOR VASQUEZが超グルーヴィーでバウンシーなプロダクションでファクトリー・サウンドをヴァージョン・アップさせた。
女性ボーカルの「エイス・オブ・ベイス」が、アメリカの雑誌「ビルボード」のシングルとアルバムの両方で年間1位を獲得。
ノートリアスB.I.Gのアルバム「レディ・トゥ・ダイ」より、第1弾シングルとなった「ジューシー」がラップ・ソングの完成形となった。
アメリカでラッパー、俳優として活躍していた、トゥパックが銃撃事件に巻き込まれた。
新レーベルのバッド・ボーイ・レコードより、ノートリアスB.I.G「レディ・トゥ・ダイ」が第1弾のアルバムとしてリリース、売上は最終的に400万枚を超えた。
1995年 ビートルズのアルバム「アンソロジー1」が世界同時発売される。予約だけで350万セットを記録。
アメリカのハウスミュージックは大きな転換期を迎え、LOUIE VAGA、DEEP ZONE、LILLOIUSらが生ベースを使うことが多くなってきたように、生っぽいサウンドに傾いていった。
NYの“SOUND FACTORY”クローズに伴い、JUNIOR VASQUEZのパーティーがTUNNELへ移動。
マライア・キャリーはデビューから5曲連続ナンバー1という快挙からスタートし、1995年には「デイドリーム」でアメリカの雑誌「ビルボード」の年間アルバムチャート1位を獲得した。
トゥパックのアルバム「ミー・アゲンスト・ザ・ワールド」の第1弾シングル「ディア・ママ」、リリースから数か月後にはプラチナ・シングルに認定され、ビルボード誌のホット・ラップ・シングル・チャートで5週連続ナンバー1の快挙。
アメリカの雑誌「ザ・ソース」が行う、ザ・ソース・アワードの、ベスト・ニュー・アーティスト賞をアウトキャストが受賞。
映画「8マイル」にも使われたモブ・ディープ「シュック・ワンズ・パート2」、曲を聴くと思わず頭を揺らしたくなる、そんなスタミナのある曲
1996年 ビートルズのポール・マッカートニーがスポンサーをつとめたリヴァプール総合芸術大学(リヴァプール・インスティテュート・フォー・ザ・パフォーミング・アーツ<LIPA>)が開校される。
ロンドンのアンダーグラウンドでは、DJ HARVEYの影響を受けたクリエイター、DJ達によってNU HOUSEと言われるシーンが盛り上がり、BLUE NOTEでは、“LONDON X PRESS”などのNU HOUSE系パーティーが行われるようになる。
NYの“Sound Factory Bar”がクローズ。
スペインの男性デュオ、ロス・デル・リオの「恋のマカレナ(ベイサイド・ボーイズ・リミックス)」が、アメリカの雑誌「ビルボード」のシングル売上チャート14週連続1位という大ヒットを記録した。
トゥパック ft ドクター・ドレー&ロジャー・トラウトマン「カリフォルニア・ラブ」が発売。ギャングスタ・ラップとGファンクの融合が秀逸。
ボーン・サグスン・ハーモニー「ザ・クロスローズ」の大ヒットで、グラミー賞の最優秀ラップ・パフォーマンス賞を受賞。
1997年 ビートルズの「フリー・アズ・ア・バード」がグラミー賞の最優秀ポップ・ヴォーカル・パフォーマンス賞と最優秀短編ミュージック・ビデオ賞に、「ザ・ビートルズ・アンソロジー」が最優秀長編ミュージック・ビデオ賞に輝く。
プエルトリコで最初の「ワールド・サルサ・コングレス」が行われた。
エルトン・ジョンのシングルCD「キャンドル・イン・ザ・ウインド1997/ユー・ルック・トゥナイト」が1100万枚のセールスを記録した。
パフ・ダディにとっての初のソロ曲、「キャント・ノーバディ・ホールド・ミー・ダウン」(パフ・ダディ ft メイス)発売、売上は400万セットを超え、6週間ビルボードの首位に立った。
映画「ライム&リーズン」、商業化されゆくヒップ・ホップの世界を、アーティスト達のインタビューでつづるドキュメンタリー作品
1998年 ビートルズのジョン・レノンの未発表音源を集めた4枚組CDボックス・セット「ジョン・レノン・アンソロジー」と、そのダイジェスト盤「ワンスアポナタイム」が発売される。
ラテン音楽の王様、ティト・プエンテがマンボ時代のヒット曲を再演した「ダンス・マニア’99」を発表した。
アメリカではラップの全盛期を迎え、数々のヒットが生まれた。ラッパーのDMXもデビューアルバムが全米チャート1位を記録した。
DMX「パフ・ライダーズ・アンセム」発売、当時の人気のラップスタイルを覆すものであった。
ジェイZ「Vol.2...ハード・ノック・ライフ」を発表、ビルボード誌のTOP200で初登場1位に輝き、最終的な売上は500万セットを超えた。
1999年 ビートルズのポール・マッカートニー、ロックの殿堂入りを果たし、ブルース・スプリングスティーン、ビリー・ジョエル、エリック・クラプトン、U2のボノ、ロビー・ロバートソンらと「ブルー・スウェード・シューズ」「ホワッド・アイ・セイ」「レット・イット・ビー」で共演する。
エミネム「マイ・ネーム・イズ」発売、最優秀ラップ・ソロ・パフォーマンスでグラミー賞を勝ち取った。
50セント「ハウ・トゥー・ロブ」リリース、この曲で4分間に渡り盗みのあらゆる手管についてラップしている。
リル・ウェインがソロ・アルバム「ブロック・イズ・ホット」で才能ある、技術に長けたラッパーであることを見せつけた。
ナズが「ウィー・ウィル・サバイブ」を発表、曲の一部が、ザ・ノートリアスB.I.Gへの頒歌となっている。
2000年 ビートルズの伝記本「ザ・ビートルズ・アンソロジー」が世界同時発売される。
ビートルズのアルバム「ザ・ビートルズ1」が発売される。34ヵ国で1位に輝く。
アメリカのIBIDAN RECORDSでは、プロデューサのJOE CLAESSELLがIBIDAN RECORDSのアーティスト達をプロデュースするショーケース的な形のアルバム、JOE CLAESSELL「Language」をリリースした。
バンドリーダー、ティンバレス奏者、ヴィヴラフォン奏者、コンポーザー、アレンジャーとして世界的に知られる、マエストロ、ティト・プエンテが急逝。マンボ・キング、エル・レイ・デル・ティンバル、(ティンバレスの王様)と呼ばれ愛された偉大なアーティストであった。
カントリー・アーティストのフェイス・ヒルのシングル「ブリーズ」が、アメリカの雑誌「ビルボード」の年間シングルチャートの1位となる。
ジェイ-Z ft UGK「ビッグ・ピンピン」、すでにスタートなっていたジェイ-Zと、ほとんど無名だったUGKの組み合わせで、大成功を収めた。
2001年 ビートルズのジョン・レノンの映像集、「ギミ・サム・トゥルース」がグラミー賞の最優秀長編ミュージック・ビデオ賞に輝く。
アメリカのIBIDAN RECORDSでは、JEROME SYDENHAM AND KERRI CHANDLERのアルバム「Saturday」をリリースした。
ビートルズのアルバム「1」がアメリカの雑誌「ビルボード」の年間アルバムチャートで初の1位を獲得
ジェイ-Z「テイクオーバー」、実生活とアートが交わる点を堂々と表現してヒットした。
ナズ「イーザー」発表、辛辣な機知に富んだ歌詞と、サンプリングの工夫で音のふくよかさを出した。
2002年 ビートルズの「エリナー・リグビー」がグラミーの殿堂入りを果たす。
ノラ・ジョーンズのデビュー・アルバム「ノラ・ジョーンズ」が、アメリカの雑誌「ビルボード」のコンテンポラリー・ジャズ・アルバム・チャートで、2002年から143週連続1位の快挙を記録。
兄弟によるラップ・デュオ、ザ・クリプスの「グリンディン」発売、ギャングスタ・ラップを進化させ、コーク・ラップをもたらした。
DMXが自叙伝「E.A.R.L. The Autobiography of DMX」を出版。
2003年 ビートルズのアルバム「レット・イット・ビー…ネイキッド」が日本で先行発売される。
マドンナが、1983年から2003年まで、21年連続で、アメリカの雑誌「ビルボード」のシングルチャートトップ40入りの快挙。
ヒップホップがチャートの主役となり、2003年には50セントのアルバム「ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン」、シングル「イン・ダ・クラブ」がどちらもアメリカの雑誌「ビルボード」の年間チャート1位を記録した。
50セント「イン・ダ・クラブ」、ビルボード誌のHOT100チャートで9週間首位に立った。
トゥパックのドキュメンタリー作品「レザレクション」、彼の生い立ちや、長編のインタビューを含む見ごたえのある作品。
50セントのアルバム「ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン」は発売初週で87万枚以上のセールスを記録、それ以降も売り上げを伸ばし、全世界で1200万枚が売れた。
ナズ「メイド・ユー・ルック」、ナズはアパッチのサンプルにのせ、桁外れの大胆不敵さをひけらかし、この曲の持つ緊張感が時代の不安な空気を伝えた。
2004年 ビートルズのジョージ・ハリソンの「マルワ・ブルース」がグラミー賞の最優秀ポップ・インストゥルメンタル・パフォーマンス賞に輝く。
マイク・ジョーンズ ft スリム・サグ&ポール・ウォール「スティル・ティッピン」の発表後、数か月でヒューストンをラップの街に変えた。
リル・ウェインのアルバム「ザ・カーター」発売、全米で80万枚を売り上げゴールド・ディスクに認定された。
2005年 ビートルズのジョージ・ハリソンのトリビュートDVD「コンサート・フォー・ジョージ」がグラミー賞の最優秀長編ミュージックビデオ賞に輝く。
アメリカの雑誌「ビルボード」はチャートの集計対象にダウンロードでのセールスを加えた。
カニエ・ウエストの2作目のアルバム「レイト・レジストレーション」の中の1曲「ダイヤモンドは永遠に」が、グラミー賞のベスト・ラップ・ソング賞を受賞
マライア・キャリーがシングル「ウィ・ビロング・トゥゲザー」で大復活を遂げて、アメリカの雑誌「ビルボード」の年間シングルチャート1位となった。
アメリカのテレビ番組「アメリカン・アイドル」で優勝したキャリー・アンダーウッドは、アメリカの雑誌「ビルボード」のカントリー・アルバム・チャートでデビューから5作連続初登場1位を続けている。
カニエ・ウエスト ft ジェイミー・フォックス「ゴールド・ディガ―」が、グラミー賞で2部門ノミネートされ、1部門で受賞した。
アメリカのバンド、システム・オブ・ア・ダウンの「B・Y・O・B」が、グラミー賞のベスト・ハードロック・パフォーマンス賞を受賞。
2006年 “キング・オブ・ソウル”こと、ファンクの帝王、ジェームス・ブラウンが死去。歌手、ダンサー、そして自身のバンドJ.B.'sのリーダーを務めた。
ダニエル・パウター「バッド・デイ~ついてない日の応援歌」で、アメリカの雑誌「ビルボード」の年間シングルチャートの1位となるが、以後、一度もチャートインすることがなく一発屋となっている。
リアーナのアルバム「ガール・ライク・ミー」が、アメリカの雑誌「ビルボード」の年間アルバムチャートに初登場。以後、8年連続でチャート入りを記録。
リック・ロス「ハスリン(Hustlin')」、この曲で自分の口から出た事の信憑性よりも、そこでの想像力や表現の豊かさに重きを置くラップの始まりを示した。
ナズのアルバム「ヒップ・ホップ・イズ・デッド」に収録の「フー・キルド・イット!」、これ見よがしなラップにナズの数ある楽曲の中でもワーストと言われた
2007年 アメリカのテレビ番組「アメリカン・アイドル」出身のグループ、「ドートリー」のアルバム「ドートリー」がアメリカの雑誌「ビルボード」の年間アルバムチャート1位を記録。
UGK ft アウトキャスト「インターナショナル・プレイヤーズ・アンセム」、アメリカ南部のラップ・レジェンドによる一大イベントを扱った曲で、南部のラップに向けられていた恩着せがましい態度の終焉を示した。
2008年 リル・ウェイン「ア・ミリ」、この曲をきっかけに、リル・ウェインがミックス・テープ活動で勝ち得ていた成功を、アバヴグラウンドでの成功に転換した。
カニエ・ウエストのアルバム「808s & Heartbreak」、カニエの感情をさらけ出した一作。
マイク・ジョーンズが映画「アメリカン・ドリーム」を発表、自信の半生を描いた作品であった。
2009年 アメリカにてドラマ「グリー」が放送開始、番組内で歌われた曲が多数ヒットした。
ブラック・アイド・ピーズのシングル2枚が、ビルボードの年間シングルチャート1位と4位のヒットとなる。
ドレイク「ベスト・アイ・エバー・ハッド」、グラミー賞の2部門で候補となった。
2010年 イギリスのオーディション番組「ブリテンズ・ゴット・タレント」で準優勝のスーザン・ボイルが48歳にしてデビュー、アルバムがアメリカの雑誌「ビルボード」の年間アルバムチャート1位を記録。
ブルーノ・マーズのシングルが、2010年より4年連続でアメリカの雑誌「ビルボード」の年間シングルチャートに登場。
EDMブーム到来、トランス、テクノ、ハウス、ダブステップなどのエレクトロニック・ダンス・ミュージックが全盛。
カニエ・ウエスト ft リック・ロス、ジェイZ、ボン・イヴェール、ニッキー・ミナージ「モンスター」、カニエ・ウエストが旧来のラジオ受けするシングルらしい楽曲構成ではない、ラジオ向けシングルを作り始めた分岐点となった曲。
アメリカのテレビ番組「60ミニッツ」で、エミネムへのインタビューが行われ、ライムをつなぎ合わせる複雑さとひらめきが発揮され話題となった。
2011年 アデルのアルバム「21」がアメリカの雑誌「ビルボード」の年間アルバムチャート1位を記録、2012年も同様に1位となり、2年連続年間アルバム1位に輝いた。
ジェイZ&カニエ・ウエスト「ニガース・イン・パリス(Niggas in Paris)」、グラミー賞でベスト・ラップ・ソングとベスト・ラップ・パフォーマンスを受賞。
ハーレム出身のラッパー、エイサップ・ロッキーが「Purple Swag」という曲を発表、スロウな曲だがメロディックで自己主張の強い曲である。
2012年 イギリス出身のワン・ダイレクションのアルバム「アップ・オール・ナイト」が、アメリカの雑誌「ビルボード」のアルバムチャート1位を獲得。
韓国出身のPSY(サイ)の「江南(カンナム)スタイル」が、You tubeでの視聴回数が22億回を超える。
マックルモア&ライアン・ルイス「セイム・ラブ」、同成婚をテーマにした初めてのラップ・ソングで、ビルボードのトップ40入りを果たした。
ジェイ・Zとカニエ・ウエストのコラボによる「Otis」がグラミー賞の最優秀ラップ・パフォーマンス賞を勝ち取った。
2013年 アメリカのDJバウアーの「ハーレム・シェイク」が1週間で1億回のストリーミングを記録し、アメリカの雑誌「ビルボード」のシングルチャート1に登場した。
アメリカの雑誌「ビルボード」において、ストリーミング・チャートがスタートする。チャートは「見る」要素が重要な時代になった。
ケンドリック・ラマー&ジェイ・エレクトロニカ「コントロール」、RollingStone.comより年間ベスト・ラップ・ソングの3位に選ばれる。
2014年 映画「アナと雪の女王」のサウンドトラック「FROZEN」がアメリカの雑誌「ビルボード」の年間アルバムチャート1位を獲得、映画同様大ヒットを記録した。
リッチ・ギャング ft ヤング・サグ&リッチー・ホーミー・クワン「ライフスタイル」、この曲でヤング・サグが商業的にも通用する事を示し、正当化し、次代を担うに十分なラッパーとしてのお墨付きを与えた。

出典:
All ABOUT DISCO MUSIC(TOKYO FM出版)
ジャズの歴史(ヤマハ)
別冊宝島 マイケル・ジャクソン(宝島社)
DJバカ一代(Rittor Music)
ビートルズ事典(ヤマハ)
HOUSE LEGEND THE CORE OF DANCE MUSIC(アウトバーン)
DANCIN’ SALSA ダンシング・サルサ(アスペクト)
宝島特別編集 日本ロック大百科 年表篇(JICC出版局)
ラテン音楽パラダイス(日本放送出版協会)
ビルボード年間チャート60年の記録 1955-2014(共同通信社)
ラップ・イヤー・ブック(DU BOOKS)
米国ラテン音楽ディスク・ガイド50's→80's(リットーミュージック)
クラブ・ミュージックの文化史(JICC出版局)
HEAVY METAL / HARD ROCK 黄金伝説(宝島社)